新選組の誕生 |
文久3年(1863)、多摩出身の近藤勇らは、京都で治安維持を任務とする会津藩御預「新選組」を結成。翌年6月、「京に火を放ち天皇を拉致する」という長州の謀略を未然に防いだ「池田屋事件」で注目された。 |
鳥羽伏見戦争
・勝沼戦争 |
慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見で薩長軍に敗れ、江戸へ帰還。勇は幕府若年寄格となり大久保大和守剛と改名、幕兵で鎮撫隊を組織するが勝沼で敗走。 |
新選組流山へ |
3月13日から五兵衛新田(足立区西綾瀬)の金子家を屯所とし順次集結、隊士徴募で227名となった新選組は、田中陣屋占拠を計画、幕府に流山転陣を願い出るが、許可を得ないまま、西軍の千住進軍に対し、4月1日流山転陣を敢行した。 |
流山事件 |
流山では、「秋元」で金策をし、醸造家永岡三郎兵衛方を本陣に、光明院や流山寺、他に分宿した。翌3日、情報を得た西軍が来流、発砲騒ぎとなったが、夕方には新選組本陣は包囲された。
大久保(勇)は、改名が知られていないことを利用し幕府公認の鎮撫隊を主張、壮士2名を従え出頭。深夜に去流し越谷に宿陣した大久保は、翌4日に板橋総督府に連行された。歳三は会津藩士らと江戸へ潜入、勝海舟らと救出工作をするが、相馬主計が越谷経由で板橋に到着したのは5日、すでに大久保は前夜(4日夜)に近藤であると露見し幽閉されていた。
勇捕縛の知らせで、残留隊士らは6日に流山を脱出、布佐から銚子、潮来、平潟などを経由し会津を目指した。 |
流山以降・北征 |
勇の捕縛、江戸城開城に対し、歳三は旧幕府軍と連携、先鋒軍を率い12日に小金宿陣、宇都宮を目指す。島田らも大鳥軍と共に13日に松戸宿陣、14日は再び流山宿陣、翌日に山崎宿へ向かう。江戸で袂別した永倉と原田も15日、山崎宿へ進軍するが原田は離隊する。
宇都宮で歳三は負傷、勇が4月25日に処刑、晒し首にされたことを知る。その後、旧幕軍は会津へ集結、隊士たちは再会するが、やがて箱館戦争で歳三は戦死、新選組も降伏する。 |
現代において |
出頭経緯や本陣所在地論などは諸説あるが、勇の出頭で隊士は脱出、後のドラマに繋がった。「新選組流山隊」では、「勇と歳三の離別の地」としてPR、大河ドラマ放映を契機に、縁の地として脚光を浴びるようになった。
平成15~17年、流山に関する新史料が数点発見され、新たな史実の推測や逸話、新史跡も増え、巡察会や講演会で紹介、活動の輪も拡がりつつある。 |